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東京高等裁判所 平成3年(ラ)733号 判決 1992年10月14日

抗告人 申立人承継人亡大塚忠遺言執行者 ○○○○

被抗告人 大塚俊輔 外1名

主文

一  原審判を取り消す。

二  被抗告人両名が亡大塚忠の推定相続人であることを廃除する。

理由

一  本件抗告の趣旨及び理由は、別紙「即時抗告申立」と題する書面記載のとおりである。

二  本件記録(当裁判所の審問の結果を含む。)によれば、原審判の理由欄の「2 証拠上明らかに認められる本件の経緯・背景」記載の事実のほか、以下の事実が認められる。

1  亡大塚忠(以下「忠」という。)は、昭和63年7月8日に妻要子が死亡した後は、東京都○○区○○○×丁目×××番所在の土地・建物(以下「本件不動産」という。)に一人で居住していた。

同月中旬ころ、被抗告人ら夫婦が忠方を訪れた際に、忠と被抗告人大塚俊輔(以下「被抗告人俊輔」という。)とが言い争いとなり、被抗告人俊輔は忠にぬるい湯の入ったやかんを投げつけ、これが忠の顔面に当たり、顔面が腫れ上がった。

忠は、当日、千葉県長生郡○○町に住む二女の竹内友子に電話して、「俊輔から殺されるから、助けてくれ」と繰り返し訴えた。驚いた友子は、翌朝直ちに夫とともに車で忠方に駆けつけたところ、忠の顔面が右のような状態であったので、医者に行くことを勧めたが、忠は、自分の息子に乱暴されたなどとは言えないとして拒んだ。そこで、友子は、その日は忠方に泊まって忠の怪我の手当をした。その後、友子が被抗告人大塚淳子(以下「被抗告人淳子」という。)に事情を問い質したところ、被抗告人淳子は、被抗告人俊輔と忠が喧嘩になった際に、たまたま被抗告人俊輔の手が急須に触れ、その蓋が忠に当たっただけで、たいしたことはない、と笑って答えた(なお、被抗告人俊輔は、原審における本人尋問において、テーブルを叩いたら急須の蓋が跳ねて当たった、と述べ、被抗告人淳子は、当審における審問において、受話器のコードが急須の蓋をとばした、と述べているが、いずれも信用することができない。)。

忠は、横浜市に居住する長女の小林久子にも電話して「助けてくれ、このままだと殺される」と訴えたので、久子は直ちに被抗告人俊輔に電話したところ、被抗告人俊輔は、「話をしているうちに手がすべって急須の蓋が親父の顔にちょっと当たったら、親父の奴殺されるとわめきやがった」と答えた。

このことがあってから、忠は護身用の木刀様の木の棒を身辺に置くようになり、今後俊輔が乱暴したらこれを使うと述べていた。

2  被抗告人俊輔及び同淳子には、忠の近くに住んでいたにもかかわらず、一人暮らしの忠の生活の面倒を見ようという気持はなく、被抗告人俊輔は、忠に対し、本件不動産を売却して老人ホームに入ったらどうかと提案したが、忠はこれを拒否した。被抗告人らが忠の世話をするために忠方を訪れることも少なかった。

しかし、忠がガスを消し忘れたり、風呂の空焚きをするような事故が生ずるようになったので、○○区役所福祉課に家政婦の派遣を依頼することになり、昭和63年7月から数名の家政婦が順次派遣されてきたのち、同年9月1日からは小山和江家政婦が派遣され、忠の世話をした(同家政婦は、忠が千葉県に転居した平成元年6月4日ころまで忠方で勤務した。)。

3  忠は、昭和63年8月中旬ころ、被抗告人らに対し、本件不動産等要子の遺産はすべて忠が相続することにしたいと申し入れた。忠は、本件不動産はもともと忠が要子に贈与したものであったので、要子が死亡した後は自分が取得するのが当然であると考えていた。

しかし、被抗告人らは、自分たちにも相続権があると主張して、忠の申し入れには頑として応じようとしなかった。

忠は、被抗告人らとの対立が深刻化し、また、被抗告人らから老後の世話を受けることはできないと考え、友子に対し、同人の住居の近くに土地を難入して移住したいと相談した。友子は、医者からは、忠の健康状態について、興奮状態が続き、極めて不安定な精神状態であり、健康を害しているから、早急に気持の落ちつける場所に住まわせるようにと言われ、忠の世話について小山家政婦に引き続き全面的に頼り続けることもできないと考え、自分が忠の面倒を見ることとした。そこで、忠は、昭和63年12月、友子居住地の隣接地50坪を購入し、平成元年1月ころ建物の建築に着手した。

これらの購入資金等を捻出するためにも、本件不動産の売却が必要になったので、忠は自分名義の相続登記を早急にしたい考え、被抗告人らに対し、1000万円を支払うので本件不動産を忠だけが相続することを了解してもらいたいと要望したが、被抗告人らは法定相続分に従った相続をすることを主張してこの要望も拒否した。

そして、この話し合いの際に、被抗告人俊輔は、忠を、「千葉に行って早く死ね、80まで生きれば十分だ」などと罵倒した。

また、被抗告人淳子は、平成元年3月13日、14日ころ、忠に対し、「千葉のほうに土地を買ったろう。そんな金があるんだったら長男夫婦である自分たちの家を作ってくれ」と述べた。同席していた小山家政婦が、「忠は通院中で血圧が高いので、静かに話して下さい、興奮させないで下さい」と言ったところ、被抗告人淳子は、「老人は少しくらい興奮させた方がいい。85、6歳まで生きているんだから死んでもかまわない」と言い放った。

4  平成元年2月ころからは、忠と被抗告人らとの本件不動産の相続を巡る対立は一層激化し、忠から小山家政婦の自宅にまで「被抗告人らが酷いことを言って脅迫する」という電話が何回もあるようになり、同年4月13日には、忠から「今から俊輔が来る。俊輔に叩き殺されてしまう、助けてくれ」という恐怖に怯えた電話があった。小山家政婦は直ちに忠を迎えに生き、同日と翌日の夜、自宅に忠を宿泊させた。

このことを聞いた友子は、心配して、○○弁護士に相談し、同弁護士は、同月13日、被抗告人らに対し、要子の遺産の分割の件は自分が忠の代理人として被抗告人らとの交渉等を担当することになったこと、今後忠に対する直接の交渉、連絡等は遠慮されたいことを内容証明郵便で通告した。

5  小山家政婦は、献身的かつ誠実に忠の世話をしており、しかも忠は一人では生活ができないような健康状態であったが、被抗告人俊輔は同家政婦が家庭内の問題に介入し、友子・久子に味方していると考えて、同家政婦を排除しようと企図し、同年4月13日ころ、○○区役所福祉課に電話して、同家政婦を辞めさせるようにと申し入れた。しかし、区役所福祉課の担当者は右申し入れを拒否した。

6  忠の資産、収入としては若干の預金と国民年金しかなく、生活に余裕があるとはいえなかった。そのため、生活費や家政婦への支払のうち個人負担分は、友子及び久子が負担し、被抗告人らは全く負担しなかった。

むしろ、忠は、被抗告人俊輔に、要子の葬儀の直後に、葬儀の際に世話になった謝礼の趣旨も含めて、100万円を渡した。また、被抗告人らは、忠のもとに持参した食料品等についてもその代金の支払を要求し、忠の家へ被抗告人淳子が通うために購入した自転車の代金も忠が負担した。被抗告人淳子が忠に、旅行に行く費用を出してもらいたいと要求したこともある。

7  忠と被抗告人俊輔とは、忠が要子と再婚したころから、折り合いが悪く、以後両者の関係は決して良好なものとはいえず、言い争いも多く、被抗告人俊輔は、忠に対し、しばしば侮辱的な言動をとった。また、被抗告人俊輔は、要子を生涯「おばさん」と呼び、忠と口論する都度、自分を勝手に要子の養子にしたから、離縁してやると述べていた。

そして、忠は、昭和38年に被抗告人俊輔が始めたスナックの開店資金の少なくとも一部を援助してやったほか、その後も被抗告人らの要求に応じて、生活費、店の運転資金等を渡していた。忠は、生前、友子や久子らに、自分が被抗告人らのために支出した金額は2000万円にも上ると述べていた。

三  以上の事実によれば、被抗告人両名には、忠に対する重大な侮辱があったものといわざるをえない。

そして、被抗告人らの右行為は、要子の遺産相続を巡って忠と被抗告人らが対立していた時期だけに限定される一過性のものではなく、遺産相続を巡る対立がその唯一の原因であるということもできない。むしろ、被抗告人らの忠に対する日頃の非協調的ないし敵対的な態度、性向が遺産相続の問題を契機として明確に露呈したとみるのが相当である。

なお、忠が本件不動産を単独で相続したいと提案したことは、もともと本件不動産は忠が要子に贈与したものであり、忠には他に十分な資産・資力がなく、高齢で病気がちであったのであるから、必ずしも身勝手な要求であるとはいいきれない。したがって、被抗告人らがこの要求を法律の規定を楯に拒否し、全く譲歩しようとせず、その反面において忠を扶養する義務を尽くさなかったことは、到底是認することができない。

もっとも、遺産相続については、その後調停が成立しており、被抗告人らは本件不動産の各100分の15の持分を取得することになり、法定相続分よりも譲歩している。しかし、この調停が成立したことによって、忠と被抗告人らの間の対立が解消して両者の関係が円満なものとなったとか、あるいは忠が被抗告人らの行為を宥恕したものとは考えられない。本件記録によれば、忠は、生活に困窮し、本件不動産を早急に売却する必要に迫られ、しかも高齢でもあったので早期の解決を希望し、やむなく調停の成立に応じざるをえながったものであり、その死亡時まで被抗告人らを廃除したいとの強い意思を有していたと認められるからである。したがって、本件申立ての当否を考えるにあたって、右調停が成立しているという事実は、それほど重視すべきではない。

結局、被抗告人らの行為は、その態様、原因、背景等に鑑み、廃除事由にあたるものというべきである。

四  以上のとおり、本件抗告は理由があるから、家事審判規則19条2項により原審判を取り消し、審判に代わる裁判をすることとし、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 篠田省二 裁判官 矢崎秀一 及川憲夫)

即時抗告申立の趣旨(抄)

一 原審判を取消す。

二 相手方両名を大塚忠の推定相続人たることを廃除する。

即時抗告の理由

第一 原審判は、次の通りの明白な事実誤認が存在するとともに、本件推定相続人廃除を判断する上で不可欠である事実についての認定を怠った違法があり、右は審判に影響を及ぼすことが明白である。

一 原審判は、推定相続人廃除を申し立てた、亡大塚忠に対する相手方大塚俊輔及び淳子による重大な侮辱行為並びに著しい非行が、昭和63年の後半に限られ、その前にも後にもかようなことが存在していないと認定したが、右認定は、完全に事実に反するものである。原審判において、証人の証言を含む関係証拠に照らし、あまりにも明白な事実誤認が犯されていることは、信じ難いほどであり、原審裁判官の適確性、誠実性を疑問視せざるを得ない。誠に悲しい限りであるが、亡忠と相手俊輔夫婦のことを知る親族、関係者らがあきれかえっている状態である。

このようなあまりにも軽率かつ安易な事実認定をしていては、裁判に対する信頼は、根こそぎ喪失するものと言わざるを得ない。故意と同視すべき重過失による事実誤認である。

二 まず、第一に指摘すべきは、唯一の証人として尋問が認められた証人小山和江の証言すら事実認定に正しく反映していないことである。

1 右小山証人は、原審判廷において、忠と俊輔夫婦の家族的共同生活関係が破壊され、平成元年四月(正確には4月13日)に、小山に助けを求めて忠が同人方へ避難した事実について証言しているにもかかわらず、右の事実が、昭和63年後半のことであると認定している。右は、事実と明白に異なっている。

申立人忠と相手方ら間の関係は、平成元年に入り、過去最悪の状態となったというのが真実である。それも、相手方らの一切の妥協にも応じず、亡忠を脅してでも売買代金の半分を得ることに血道を上げていたことによるものである。

2 また、小山が相手方淳子に対し、医師から忠を興奮させると危険であるので刺激しないで欲しいと懇願したのに対し、これを無視して淳子がかえって「刺激を与えたほうが忠のためである」「病気で早く死ねば良い」などとの悪口、雑言をあびせたのは、平成元年3月25日ころのことである。

この点についても、小山が証言しているところである上、相手方の乙第2号証26頁9行目以下に、右事実に関する小山の抗議に対する相手方らの弁解的記述が存在している通り、右の重大な侮辱がなされた時期は、平成元年3月25日に間違いないことである。右の時期については、当事者間に争いのないところである。

原審判が、昭和63年後半だけに限って廃除事実があったとの認定をした理由を、理解することは全く困難である。

三 原審判は、俊輔夫婦の著しい非行、侮辱的行為の原因を、忠自身の提案に端を発した右昭和63年後半の一時期に限られていると認定し、本件廃除の申立を却下しているが(審判書の最後の部分)、それらが右一時期に限られたものでないことは、右の通り争い得ない事実である。

そして、原審判は、忠自身の提案に端を発して、申立人と相手方ら間に争いが生じたとし、俊輔夫婦の廃除事実に関する各行為が、忠がきっかけを作り、忠側に責任があるとの認定をしている。しかしながら、右は事実に反する誤った判断である。

原審判がこのような、誤った認定をした背景には、過去の長きにわたる双方の生活関係について、諸般の事情を十分に配慮し、事実を緻密に精査する作業を怠り、一丁上がり的な態度で軽く審判を下していることによることが、ひしひしと感じられる。親子関係について、本当に光を当てて、正しい判断をしようとするならば、長い生活関係について、踏み込んで事実を認定する態度が不可欠である。

四1 本件との関係において、いわゆる「親泣かせ」が、過去の審判例において、民法892条の遺棄に該当するとされた事件を思い起こす必要がある(大阪家審昭和37年8月31日)。この事例は、被廃除者が大学在学中から、女遊び、飲酒をしたりして、大学を中途退学し、親が幾回も就職先を探してやっても長続きせず、何かと言っては、金をせびる行為を繰返して来たことは、著しい非行に該当するとし、相続人の廃除を認めている。子供の素行に手を焼き、それが原因で、被相続人の家族共同生活関係の秩序が破壊され、被相続人をして、家族的共同生活関係継続の意欲を喪失せしめたとされた事例である。

本件については、申立人において主張しているように、高校時代から俊輔は親を泣かせて来た経過があり、スナックの仕入れの金がない、運転資金に困った、自動車を買うから、旅行に行くから、親の世話をしたので仕事に行けなかった等、ありとあらゆることを理由に、亡忠から金をせびり続け、50歳を超えてもこれが改まらなかったという経過があったのである。本件は、右の親泣かせの面から見ても、相続人廃除を認容できるのである。そして、淳子も俊輔と一緒になって、亡忠から金をむしり取って来た経過を、本件廃除事由の判断と分断してしまうことは、許されないことである。金をせびる経過において、俊輔が大騒ぎをし、また侮辱的な悪口、雑言を重ねていたことは、忠が生前繰り返し語っていたことであり、大塚みつ江の上申書にも明らかである。

本件は、もとより忠が生前に申立をした相続人廃除の調停を引き継ぐ審判事件であり、遺言書上の直接的動機となった廃除事由とともに、家族的共同生活関係の崩壊へ導いた原因を深く見通すことが不可欠であり、その中で家族的共同関係の崩壊の原因についての有責性等を慎重審理し、判断して行かなければならない。

2 亡忠は、平成元年当時の相手方らの重大な侮辱を廃除事由として遺言したが、これは右の事実が、自己の体験に一番近接していたことから、遺言書上右の事実が特に取り上げられたのであり、侮辱の発言や非行が長期に渡って継続し、かつ反復されていた中で、遺産分割問題の発生により、相手方らの強圧的、脅迫的発言、行動に出た結果、家族的共同関係を維持する欲意と希望を喪失させて本件廃除申立てに至ったのである。前記の全てのいきさつも含んだものであると言わなければならない。

右の俊輔夫婦の、親から金や財産を40歳、50歳になってもせびり、脅し取って来たという経過に照らせば、遺言において適示されている「80まで生きれば十分である」「千葉に行って早く死ね」等という重大な侮辱が、ただの言い争いに端を発した言葉尻などでない、根深い相手方らの侮辱と非行の積み重ねの中から出たことが容易に理解出来るところである。なお付言するが、右の言動が一度だけのことでなく、同趣旨の言動や他の侮辱的悪口、雑言非行が繰り返されていたのである。

3 本件亡要子の遺産分割についても、相手方らは、忠から金をせびり取ってきた過去経験の中から、忠を脅し大騒ぎをすれば、自分達の主張が全て通るという意図のもとに、脅迫的に忠に対応してきたのである。

また、もともと争いの対象となった唯一の財産とも言うべき○○区○○の自宅は、忠が自己の資金で購入したものであり(寄与分は忠が100パーセント)、忠が要子より先に死ぬものと信じて、たまたま贈与していたものであった。しかも、この不動産が、身動きも不自由であった忠の生計のための唯一の資産でもあったのであるから、親父の面倒は見ないと言っている相手方らに対し、忠が譲歩を求めることは、社会通念に照らし相当な範囲の行為であり、忠が相続分通りの遺産分割を強制しようとする相手方らに対し、右の主張をしたことが家族的共同関係崩壊について、その端緒を作った点有責であるとする原審の判断は、日本社会の良識や通念に違背したものである。

また、相手方らには寄与分を考慮すれば、50パーセントの遺産分を主張する権利はもともとないのにかかわらず、病人であり先の生命すらわずかであった忠を、自分達の主張を実現する目的で責めさいなんだことは、相手方らにこそ家族的共同生活関係の破壊について、一方的な有責性が認められるのである。

五 右の通り、原審判の認定は、事実を誤認するとともに判断に不可欠な事実の認定を怠った違法がある。

第二 原審判には、廃除事由に関する判断について、次の通りその判断を誤った違法がある。

一 まず、相手方らの著しい非行並び重大な侮辱は、昭和63年の後半に限られたものでないことは、前記の通りであるし、また、家族共同生活関係の破壊に関する有責性についても、もっぱら相手方らにあることが明らかであり、原審判の判断は、全く誤ったものである(東京控判大正3年2月17日、東京控判大正8年5月16日)。

二 忠は死に直面しながら、近い将来の死を自覚していた86歳の老人であったのであり、かつ自分が長年暮らしてきた○○で、最期をまっとうしようとしていたものである。そして唯一の財産である自宅の不動産を売却して、将来の生活費と医療費等に当てる外ないという追いつめられた状況にあったのである。

死期の迫った人間に対し、死ねということを言うことは、健康な50代、60代の親にいう場合とその侮辱の大きさ、本人に与える痛手の大きさは著しい違いがある。その苦しみの大きさや悲しみは比較にならない。

そして、「死ね」という言葉の周辺にある、他の悪口、雑言、やかんを投げ付けるという暴行などの存在等から了解できるように、この言葉の背景には、数々のいやがらせと悪意の積み重ねが存在するのである。すなわち、家政婦のいない夜間に面会したり、電話をして脅し、忠を馬鹿よばわりし、死ねの殺すのとまでわめき散らし、他方で1日だってあんな親父と一緒に暮らせないと公言して、はばからず、忠の生活に不可欠である家政婦を排除するために役所に掛合う等昭和63年6月から平成元年6月までの一年間においてさえ、数限りない非行が積み重なっている。そして、忠の生命と身体を心配する、小林久子、竹内友子らに対しても「テメイラ…ブッ殺してやる」などという脅しをかけ、家族共同関係を自己の財産的要求を実現するために、一方的に破壊してしまったのである。

三 前記の長年の経過及び右直前の状況について考えに及ぶならば、本件相手方両名について相続人廃除が認められることは、しごく当然のことである。

四 遺産分割調停を終わるに当たって、裁判所としては、廃除の方も終了させたいという意図で廃除の調停を、今後どうするかを問われたので、この点について、本人と相談して来る旨を述べたのは、代理人であった弁護士○○○○である。これは本人が病気で入院中のため代理人として、右の点について全く相談が出来てなかったので、右のように相談するということを発言したのであり、忠自体は、強い廃除意思を有していたので、代理人としては廃除の申立を取り下げることは難しいと思っていた。もちろん遺産分割に応じる過程でも、忠が廃除調停について、これを取り下げるということを認めたことは一度もなかったし、調停の過程でもこの点については棚上げにされていたのである。竹内友子が本人に確認したところ、廃除の申立は取り下げないということであったし、そのすぐ後入院したまま忠は死亡してしまったのであるが、死ぬその日まで俊輔は、自分の子供ではないと言い続けていたとのことである。

五 以上に述べた事実関係については、一番身近にいた付内友子と誤解を生じさせる上申書を出した大塚恭治の両名について、証人尋問をすれば、原審判のような誤判は発生しなかったと思慮する。

六 遺言執行者としては、正しい事実認定をするに足る適正かつ十分な審理と緻密な事実認定をして頂き、国民(当事者)が納得できる裁判をして頂きたく、心から上申するものである。

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